ADHDとHSPの見える世界

現在22歳の大学生 ADHDとHSPの生き方を発信してます!

発達障害?そんなもんねーよ

私は中学の時にADHDと診断された。コンサータモディオダールといった(睡眠障害向け)を服用して今に至る。最近感じるのが昔の人も息苦しさを感じるのかということ。発達障害と診断されたい人を揶揄するためにこのタイトルにしたのではない。発達障害を作った医者の言いなりなりは危険だよってことを言いたい。単純に発達障害と診断するうえで「正常と異常」という考え方が使われているのって気づいている人も多いと思う。

「正常」とは何か。立ち眩みのような感覚が続いて顔の筋肉の力が抜けるあの睡眠障害を持っている人ならわかる。あの症状は日中活動するうえで不便だ。夜は起きて朝は活動したいから。日中は仕事をしたいし、夜はリラックスをしたい。それが昼夜関係なく眠っていたら何もできない。注意不足だと人の話を聞きそびれるし、ミスは多いし。

学生のうちはまだいい。

しかし社会に出ると、何もできないではなく、「生産性がない」に変わる。

資本主義の日本は労働者と資本家の関係があり、資本家は利益を沢山上げたいからそのために生産性のある人を雇う。そして、生産性がない人を見極めるために面接で判断し、使えないものは正社員でなく、障碍者枠か派遣枠等に分類される。発達障害と名乗るとどこに分類されるかな。

では今度、社会という側面から見てみよう。僕たちは明治時代から国民国家の国民として生きている。国民国家は簡単に言えば、国境があって国境の外は敵で仲は味方(日本人)という政治体制。社会人は「この国が定めた法律の中で経済活動を行って稼いだ分は国に納税してね」という約束を守る。つまり、日本人・アメリカ人・イギリス人・中国人とどこに分類されても法に従って生きてください、そうでないと日本人とはみなしませんよという前提の下で生きないといけない。

だから金が欲しいし、金があればあるほど幸せだと感じる人が増え、みんな正社員になりたくなる。障害者枠など無理。

そうはなりたくないからなるべく会社に求められる人材(生産性のある人材)になろうとする。社会人のたいていの人は社会という枠組みの中で生き残ろうと自分自身を変化する。そして適応できて生き残った人はこう考えればうまくいくという本を出し、それにかじりつく。あなたの周りの人間はそんな人ばっかなので自分を助けてくれるとか期待する方がおかしい。会社に求められていない発達障害者は周りの社会人から毛嫌いされても当然だし、なんか嫌なこと言われても至極当然のことだと思う。なぜなら社会という枠組みは「正常者」のためにあるのだから。

正常と異常、どっちに自分を振り分けたいか考えたらみんな異常を選びたがるでしょう。自分を分類する前にまず、正常と異常が本当に正しい分類の仕方なのか考えましょう。

簡単な話、自分のことを障害者だと思わない方が生きやすくなります。これは誰に何と言われようと自分は自分だし、「異常者」というレッテルをつけて「正常者」が理想だとかばかばかしいのでそういう傾向やめないかね、

【ADHD ×HSP】自分に正直に生きる勇気

現在就活をしている大学生です。

私は、ADHDを持っており、人一倍不安を感じやすい気質です。それでも前を向いて歩むことができるマインドを紹介していきます。

正直就活はきついです。もちろん精神的な意味です。面接の際に自分のことについて聞かれます。「あなたの強み、弱みは何ですか」「学生時代に頑張ったことは何ですか」「アルバイトは何をしていましたか」などなど、

この質問に答えるため、ある程度自分の過去を言語化する必要があります。それがいわゆる自己分析です。過去を振り返ってみると、自分には小学生から今まである共通点を持っていました。

 

不安を感じやすい

 

特に私は、周囲の人間に対して不安を感じやすいのだとわかりました。小学生の頃、私は落ち着きがなくデバートの中を走り回ったり、勉強に集中できず別のことに注意を向けたりして、両親に日常的に怒られていました。怒られたくはありませんでしたが、自制心を持って行動することが当時の私には苦手でした。

小学4年生になり、隣に住む私の友人が「お前のお母さんが怒っている声聞こえたぞ」と言ってきました。その他人事だけで、痛いところを針で刺されたような感覚に襲われました。この頃から私は「声が近所に聞こえているのではないか」「親から怒られてると思われてる」といった不安を持つようになりました。そして追い打ちをかけるように両親には「他の子はしっかりしてるのに」と言われ、不安は徐々に膨らみ始めました。

中学3年生の時、その不安は爆発しました。高校の進路選択で私は偏差値67の高校に進むことを決めました。中学1年生から3年生まで塾に通って好成績をキープして、合格を勝ち取りました。今思えば、偏差値67に行かないといけない、周りに惨めだと思われたくない、というプライドが働き、本音とのギャップを抱えていたんだと思います。

そして、そのギャップが葛藤を生み、親への反抗が始まりました。「なぜ勉強ばっかりやらせるんだ」「他と比べるな」「人の少ない島の学校で解放されたい」と親に投げ捨てるように言いました。妹にも強く当たるようになりました。けれども脳裏には「自分の荒げた声が誰かに聞こえてるんじゃないか」という考えがよぎってしまい、葛藤がさらに複雑なものに変わっていきました。ついには両親の前で包丁を突き付けました。「死ね」と言葉を荒げ二階の自分の部屋に閉じこもりました。興奮状態で、徐々に呼吸が荒れていて床に倒れこみ過呼吸を起こしました。母親が部屋に入り、背中をさすってくれて落ち着きを取り戻しました。いつの間にか涙があふれていました。

その後両親にハローワークに連れられて、中卒で働くつらさを教えてくれました。結局私はプライドに負け偏差値67の高校に進学しました。

そこでは自分の知らない人だけでなく、自分よりも頭のいい人が集まっているクラスに身を置かれ、不安が一気に押し寄せてきました。すでに友達を作る心の余裕がありませんでした。そして高校1年生の時に不登校になりました。家ゲームなどしながら周囲をシャットアウトしていました。親への罪悪感もありました。そして何より自分が不安から逃げている自覚もありました。引きこもり~一週間後、重い足取りで学校に行きました。人に会うのが怖くて2限目の始まりに合わせて登校しました。最寄り駅に着くと何か胸のざわめきが起きて視界がぼやける感覚に襲われました。それでもなんとか勇気を学校に着いたものの、一歩踏み込む勇気がなく校門の前で引き返しました。

引きこもっている間、唯一学校で楽しみがあったことを思い出しました。テニスです。高校からテニスを始め、人生で初めて夢中になるものを見つけました。初めて楽しくなれるものを見つけた喜びがありました。朝6:30の電車に乗って誰もいないコートで黙々と練習をしていました。昼休みも部活の友達と練習していました。テニス部を続けたいという気持ちが学校に行く勇気に変わりました。

テニスの「楽しさ」に救われながら、3年生の6月の引退まで続けました。どんなに倒れ掛かっても「楽しさ」に原点回帰することで辛さも乗り越えていきました。

3年生の9月、文化祭で演劇を披露することになりました。私は役者を初めて経験しました。実は中学の進路選択の時から役者に挑戦してみたかったんです。クラスの子にどう思われるか不安もありましたが自分の思いに正直になる覚悟がありました。私は主要な役でセリフも多く、出番も多くありました。クレイジーな役柄だったこともあり大声を張りあるがままをさらけ出しました。何年か分の思いも込めて(笑)

緊張はありました。けど楽しさもありました。やり終えた後は不安など全くなく、人生で最も自信をもって堂々としていました。

 

 

私の歩んできた一部です。不安から逃げなかったことで学ぶことは大きいです。不器用だけど回り道した分だけ得るものが多いから。世間一般の正しい道に執着するのはある意味自分の課題から逃げてしまうことだと思います。その課題から逃げないことで人生を楽しむことができるのではないでしょうか。