私は中学の時にADHDと診断された。コンサータやモディオダールといった(睡眠障害向け)を服用して今に至る。最近感じるのが昔の人も息苦しさを感じるのかということ。発達障害と診断されたい人を揶揄するためにこのタイトルにしたのではない。発達障害を作った医者の言いなりなりは危険だよってことを言いたい。単純に発達障害と診断するうえで「正常と異常」という考え方が使われているのって気づいている人も多いと思う。
「正常」とは何か。立ち眩みのような感覚が続いて顔の筋肉の力が抜けるあの睡眠障害を持っている人ならわかる。あの症状は日中活動するうえで不便だ。夜は起きて朝は活動したいから。日中は仕事をしたいし、夜はリラックスをしたい。それが昼夜関係なく眠っていたら何もできない。注意不足だと人の話を聞きそびれるし、ミスは多いし。
学生のうちはまだいい。
しかし社会に出ると、何もできないではなく、「生産性がない」に変わる。
資本主義の日本は労働者と資本家の関係があり、資本家は利益を沢山上げたいからそのために生産性のある人を雇う。そして、生産性がない人を見極めるために面接で判断し、使えないものは正社員でなく、障碍者枠か派遣枠等に分類される。発達障害と名乗るとどこに分類されるかな。
では今度、社会という側面から見てみよう。僕たちは明治時代から国民国家の国民として生きている。国民国家は簡単に言えば、国境があって国境の外は敵で仲は味方(日本人)という政治体制。社会人は「この国が定めた法律の中で経済活動を行って稼いだ分は国に納税してね」という約束を守る。つまり、日本人・アメリカ人・イギリス人・中国人とどこに分類されても法に従って生きてください、そうでないと日本人とはみなしませんよという前提の下で生きないといけない。
だから金が欲しいし、金があればあるほど幸せだと感じる人が増え、みんな正社員になりたくなる。障害者枠など無理。
そうはなりたくないからなるべく会社に求められる人材(生産性のある人材)になろうとする。社会人のたいていの人は社会という枠組みの中で生き残ろうと自分自身を変化する。そして適応できて生き残った人はこう考えればうまくいくという本を出し、それにかじりつく。あなたの周りの人間はそんな人ばっかなので自分を助けてくれるとか期待する方がおかしい。会社に求められていない発達障害者は周りの社会人から毛嫌いされても当然だし、なんか嫌なこと言われても至極当然のことだと思う。なぜなら社会という枠組みは「正常者」のためにあるのだから。
正常と異常、どっちに自分を振り分けたいか考えたらみんな異常を選びたがるでしょう。自分を分類する前にまず、正常と異常が本当に正しい分類の仕方なのか考えましょう。
簡単な話、自分のことを障害者だと思わない方が生きやすくなります。これは誰に何と言われようと自分は自分だし、「異常者」というレッテルをつけて「正常者」が理想だとかばかばかしいのでそういう傾向やめないかね、